2020年05月03日
ヨーガ・スートラとは。
こんにちは。
前回宣言した通りに、今日はヨガ哲学について。
ヨーガ・スートラについては以前にも何度か触れてきましたが、
ヨガを学ぶ人がまず最初に読む教典のひとつだと思います。
約2000年前に書かれたもののようですが、196のスートラを編纂したとされるパタンジャリについて詳しいことはわかっていないそうです。
一人の人物なのか、数名のグループなのかさえも…..
ひとつひとつのスートラはとても簡潔です。
そのため、先生たちが各々の解説を加えて教え継がれています。
ここでは、ラマスワミ先生の教えをもとに、私なりに理解したことを書いていきますが、
スートラそのもの、その訳(青字)だけを読んで言わんとすることを考察してみるのも良いと思います。
ちなみに、私の下手な日本語訳よりも、英訳をそのまま読んだほうがより良く理解できる方もいらっしゃると思いますので英訳も入れておきます。
ヨガが単に身体の健康増進だけのものではない。
と言われる理由が伝えられればと思います。
第一章 Samadhi pada(サマーディ パダ)
どの様にサマーディ(三昧)に到達するかについて述べられている章。
この章は、生まれながらのヨーギー、上級者向けだそうです。
I-1 atha yoga-anuśāsanamアッター ヨーガヌシャーサナン
This is traditional yoga. (これは伝統的なヨガである。)
「今から伝統的なヨーガについて話していきます」
というタイトルみたいなものですね。
I-2 yogaś-citta-vr̥tti-nirodhaḥヨーガスチッタ ヴルッティ ニローダハ
Yoga is the complete stoppage of the mind/brain’s activities.
ヨガとはマインド(思考)の活動を抑止するもの。
NIrodhaをcomplete stoppage(=完全な停止)と訳していますが、これはぴったりと当てはまる訳ではないようです。
サンスクリット語の先生をする知人の例えを使うと
『水道の蛇口から、その蛇口の太さと均一な水量で均等に水が流れているとき、水の流れが止まっているように見える時がある」
そのようなマインドの状態がNirodhaだそうです。
マインドの活動が完全に停止することはないけれど、その活動に干渉されない、しない状態なのだと思います。
そして、ここで気をつけたいのは、
マインドの活動・思考の抑止は、そうしようとして達成できるものではなく、
ヨガを行いNirodhaの段階に到達できた時自然と起こるもの。
ということです。
だから、私にとってヨガの道は前を見据えて進むものではなく、足元を見て歩むものです。
私は山登りが好きで旅先では山へ行きますが、登山とヨガは似ていると思います。
山を登るとき、もちろん頂上を目指して登りますが、その頂上の方を見すえ、ずっと頂上に思いを巡らせながら登りますか?
それよりも、道中の景色や珍しい植物を楽しみつつも足場の不安定な山道を一歩一歩足元に注意しながら登るものではないでしょうか。
ヨガも同じです。
登山中、天候に恵まれないと思っていたのに急に晴れたり、晴れていたのに突如霧に覆われたりと思わぬことが起こるのも、
下を向いて登り続けて、ふと顔を上げた時に見る景色に感動や達成感を感じるのも、
逆に上を見て「まだまだか〜」と落胆してしまうのも、
ヨガの学びの中でも起こることです。
身体的なヨガを行っているだけでも同じ様な体験ありませんか?
時には変化に喜んだり、進歩の無さにがっかりしたりするのも自分の位置を確認するには必要です。
ただ、そこに留まらずに
確認したらまた一歩一歩進めば良いだけです。

昨年登った谷川岳
頂上に着いた!と思ったのも一瞬。
広がる光景に
「まだまだ道は続いてるか。そうか〜」
と思わず笑ってしまいました。
私は、この数年ヨガの学びの中でこういう場面に遭遇することが多いです。
ヨーガ・スートラから少し脱線してしまったので、続きはまた次回。
NIrodha, マインド活動を抑止したらどうなるのか?
についてです。
前回宣言した通りに、今日はヨガ哲学について。
ヨーガ・スートラについては以前にも何度か触れてきましたが、
ヨガを学ぶ人がまず最初に読む教典のひとつだと思います。
約2000年前に書かれたもののようですが、196のスートラを編纂したとされるパタンジャリについて詳しいことはわかっていないそうです。
一人の人物なのか、数名のグループなのかさえも…..
ひとつひとつのスートラはとても簡潔です。
そのため、先生たちが各々の解説を加えて教え継がれています。
ここでは、ラマスワミ先生の教えをもとに、私なりに理解したことを書いていきますが、
スートラそのもの、その訳(青字)だけを読んで言わんとすることを考察してみるのも良いと思います。
ちなみに、私の下手な日本語訳よりも、英訳をそのまま読んだほうがより良く理解できる方もいらっしゃると思いますので英訳も入れておきます。
ヨガが単に身体の健康増進だけのものではない。
と言われる理由が伝えられればと思います。
第一章 Samadhi pada(サマーディ パダ)
どの様にサマーディ(三昧)に到達するかについて述べられている章。
この章は、生まれながらのヨーギー、上級者向けだそうです。
I-1 atha yoga-anuśāsanamアッター ヨーガヌシャーサナン
This is traditional yoga. (これは伝統的なヨガである。)
「今から伝統的なヨーガについて話していきます」
というタイトルみたいなものですね。
I-2 yogaś-citta-vr̥tti-nirodhaḥヨーガスチッタ ヴルッティ ニローダハ
Yoga is the complete stoppage of the mind/brain’s activities.
ヨガとはマインド(思考)の活動を抑止するもの。
NIrodhaをcomplete stoppage(=完全な停止)と訳していますが、これはぴったりと当てはまる訳ではないようです。
サンスクリット語の先生をする知人の例えを使うと
『水道の蛇口から、その蛇口の太さと均一な水量で均等に水が流れているとき、水の流れが止まっているように見える時がある」
そのようなマインドの状態がNirodhaだそうです。
マインドの活動が完全に停止することはないけれど、その活動に干渉されない、しない状態なのだと思います。
そして、ここで気をつけたいのは、
マインドの活動・思考の抑止は、そうしようとして達成できるものではなく、
ヨガを行いNirodhaの段階に到達できた時自然と起こるもの。
ということです。
だから、私にとってヨガの道は前を見据えて進むものではなく、足元を見て歩むものです。
私は山登りが好きで旅先では山へ行きますが、登山とヨガは似ていると思います。
山を登るとき、もちろん頂上を目指して登りますが、その頂上の方を見すえ、ずっと頂上に思いを巡らせながら登りますか?
それよりも、道中の景色や珍しい植物を楽しみつつも足場の不安定な山道を一歩一歩足元に注意しながら登るものではないでしょうか。
ヨガも同じです。
登山中、天候に恵まれないと思っていたのに急に晴れたり、晴れていたのに突如霧に覆われたりと思わぬことが起こるのも、
下を向いて登り続けて、ふと顔を上げた時に見る景色に感動や達成感を感じるのも、
逆に上を見て「まだまだか〜」と落胆してしまうのも、
ヨガの学びの中でも起こることです。
身体的なヨガを行っているだけでも同じ様な体験ありませんか?
時には変化に喜んだり、進歩の無さにがっかりしたりするのも自分の位置を確認するには必要です。
ただ、そこに留まらずに
確認したらまた一歩一歩進めば良いだけです。

昨年登った谷川岳
頂上に着いた!と思ったのも一瞬。
広がる光景に
「まだまだ道は続いてるか。そうか〜」
と思わず笑ってしまいました。
私は、この数年ヨガの学びの中でこういう場面に遭遇することが多いです。
ヨーガ・スートラから少し脱線してしまったので、続きはまた次回。
NIrodha, マインド活動を抑止したらどうなるのか?
についてです。
Posted by Ganesha at 19:09│Comments(0)
│ヨガ哲学
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